[傾斜面走行・安全フレーム・シートベルト、トラクタはブレーキだけでは止まらない]
北海道農業試験場では、傾斜地に対するトラクタ作業限界試験も随分行った。トラクタの静止転倒角はかなり大きいので、動転倒角や地面に凹凸があることを考えても、作業機のずり落ちを考えなくてもよいトラクタ単体の走行では、かなりの斜度まで走行は可能であった。問題は180°向きを変えるための旋回にあった。最低限に速度を落として、用心深く片ブレーキを踏んで回り込むのであるが、斜面下向きへ身体も傾くため余計に恐怖心が起こった。山側の車輪が少しでも浮くような感じがしたら、何時でも座席から飛び出せるように身構えていた。脱出する状況に至らなかったからよかったが、今考えると間違っていた。谷側へ倒れようとするトラクタから山側へ飛び出すことはできるはずもなく、座席から放り出されることが一番危険なことは、今ではよく知られている。現代ならトラクタの安全フレームの装備とオペレータのシートベルトの着用がトラクタの安全運転に必須である。
なお、傾斜地では等高線方向よりも上下方向作業の方がやりやすかったが、旋回の難しさが大きくなるので、斜面の上下端に傾斜度の比較的緩い場所がある場合に限られると考えた。
1973年に転勤した埼玉県鴻巣市の農事試験場では、小さなトレーラをけん引する歩行型トラクタであわや道路わきの用水路に転落という経験をした。この時も仕事終わりの午後5時近くの帰り道であった。操作に不慣れな上、トレーラの椅子に腰かけて行う歩行型トラクタの運転は歩行状態よりも意外と難しい。道幅が狭かったので、車か何かを避けようとしてハンドルを切ったため、ガードレールのなかった道路わきの用水路へ斜めに突っ込みそうになった。今も、歩行型トラクタにある「前後に操作するクラッチレバーは、運転者側に引くと動力が遮断する構造であること」とされている。しかし、普段の場合と違って、とっさの時に“手を伸ばしてクラッチレバーをつかみ、手前へ引く”という二段階の動作はできるものではなかった。なんとか片手ハンドルを持ち代えて、向きを反対に変えて難を逃れた。
とっさの時には“押すだけ”というような、一度の瞬間的動作でできるようにして置くことが望まれる。緊急時に備えた農業機械の安全化を図ることは大変重要であり、緊急停止ボタンのような対策が行われている。
それに加えて、農作業安全には作業者が安全意識(用心・心構え)を持つことが大切である。今も多いロータリを直結した歩行型トラクタによる事故は、十分注意・用心することで防がなければならない。旋回のような空走行の時には、必ずロータリの回転を止める。後退(バック)する時はロータリの回転停止が必須で、現代の歩行型トラクタでは「走行変速レバーを後退位置に入れるとロータリが自動的に停止するか、又はロータリを停止しないと走行変速レバーが後退位置に入らない」ようにされている。管理機のような小さいものでも、軽四輪の荷台へ上げる時、荷台から下ろす時は注意し過ぎても過ぎることはない。
1997年から勤務した鳥取大学では、毎年県立農業大学校で農業機械学の講義と実技を行った。そこでは、特に“トラクタはブレーキだけではいくら踏んでも止まらない”ことを理屈と試乗とにより教えた。減速比の小さい乗用車はブレーキを踏めばエンジン停止を起こせるが、減速比の大きいトラクタはいくら車軸にブレーキをかけてもエンジンに伝わる力が余り大きくならない(小さい)ためにエンジンは止まらない(エンストしない)。それどころか、トラクタにはプラウやロータリによる負荷が大きくなると調速機(ガバナー)が働いてエンジン出力を上昇させ、過負荷を乗り切ろうとする特性を持たせてある。結局、トラクタは走り続ける。現代のほとんどの乗用車にはクラッチがないのでその使用に不慣れで、左足側にクラッチ、右足側にブレーキのあるトラクタでとっさの時にクラッチを踏まないでブレーキだけを踏んでしまう。乗用トラクタの急停止には、両足を踏ん張ってクラッチ切りとブレーキがけを同時に行うことが必要である。
ただし通常、クラッチペダルは一つであるがブレーキペダルには左右別制動用に二つあるので、道路走行のように高速走行時は左右のブレーキペダルを連結しておく必要のあることは、次回で述べる。